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被災地域からの帰還 その2 [東北関東大震災]

被災地で2晩過ごした13日の朝タバコが切れたので近くのガソリンスタンドが併設されている商店に入った。ガソリンは売り切れでスタンドにロープが張られていたが灯油を買いに来ている人たちがいた。この時点で暖房用の燃料は確保できていたようだ。タバコはほとんど売り切れの状態だったが、愛飲しているピーススーパーライトが2個残っていたのでそれを買った。[soon]

 

その足で避難所に行き状況把握のためテレビを見ていた。避難所となっていた小学校の体育館は超満員状態で、聞くと当初予定していた施設だけでは収容しきれず近くのお寺にいる人もいるようだった。車に戻る途中避難本部があるところに行ってみた所、次から次に新しい被災者が到着していたが、当地では収容しきれずさらに北西側にある福島市に近い施設に行くように言われ、“ガス欠なのにどうやって行くんだ”とどなり声をあげている人もいた。

携帯電話は被災直後には使えたがその後圏外表示になり使えなくなった。主に通話専用で使っているauは依然として圏外表示のままだったが、地元の人に聞くとdocomoなら通話できる時もあるようだった。

ガソリンも少なくなっていたので復旧が早く進むと思われる東北新幹線の福島駅を目指して114号線を北西に進んだが、道中は道路の損傷もほとんどなく左右に見える民家に地震の傷跡は発見できなかった。峠を越えて川俣町に入ると携帯電話の圏外表示が消えて3本立つようになったが通話はできなかった。

川俣町の114号線沿いにある小学校が避難所となっていたので立ち寄ってみた。ここも体育館はスシ詰め状態だった。ここも水、電気は使えガスもプロパンなので最低限のインフラは整っていたが、5Kほど西に行くと福島市になりここは断水が続いており、水を求めて越境してくる人も多いと聞いた。

人口約15000人の町に約5000人の被災者が来ているとも聞いた。町にはスーパーマーケットが2件あったがどちらも長蛇の列で入場制限をしていた。町中に銭湯があることがわかったのでそこに行くと人は並んでいたが1時間ほどで入浴できた。久しぶりに風呂につかりすっきりしたので身体も軽くなり少しは生き返った感じがした。それから道の駅に行き菓子類などがあったので買い求め、交通情報などを地元の人に聞いて回った。予定では福島市に入りそこで車中泊しようと考えていたが、地元の人によると福島市は水がないのでトイレにも不自由するからここに止まったほうがいいと言っていた。また、原子力発電所からの直線距離は約50Kであることもわかった。

ここを動くか動くまいか迷ったがガソリンもエンピティランプこそ点いていないが残り少なかったので目算の立たない行動はしないほうがいいと思い、ここで交通回復を待つことにした。公衆電話があったので何回かかけてみたがつながらなかった。この夜も車の中で眠りに就いたがエンジンを切っていたので寒くてなかなか眠れなかったが、レインウェアを車に積んであったのでそれを着ると寒さをだいぶしのげた。

14日はコンビニで新聞を買って丹念に読んだ。そのあとスーパーに行ったがパン類、カップ麺類の棚は空っぽで卵もなかった。惣菜やおにぎりがあったので少し買った。ついでに寝酒用にワンカップも買った。それから避難所に行ってずーっとテレビを見ていたが、首相の涙目の会見を見てこいつは国の指導者として失格だと思った。困難な時ほど指導者は毅然とした態度を取る必要がある。決して感情に負けてはいけないのである。枝野官房長官の会見は言葉こそ選んでいたが割と率直に語っているように感じた。原子力安全・保安院、東京電力の会見は何かを隠しているような印象を持った。

14日の夜も完全防備して車中泊した。身体の内側からも温めるためワンカップ2本飲んだ。眠りについても余震で車が揺れるので何度か目が覚めた。酒で酔いも回っていたので地震がなくても揺れているような感じになったのかもしれない。早く眠りについたので15日の朝は目覚めも早かった。コンビニに新聞を買いに行ったら田舎の冠婚葬祭で何度か会ったことのある親戚の人にバッタリ出くわした。昨晩遅く村からすぐに避難するよう防災無線放送があったのでと言っていた。政府が30K圏内屋内退避を発表したのは遅れること15日の午前中であった。原発周辺の地元に残っていた人たちには独自の情報網があるように感じた。

東京に戻ってきてからインターネットの記事を丹念に調べると14日の夜には東電が全員退避を政府に申し出ていたり、自衛隊が14日深夜に被災地域から突然撤退したりの動きがあったようだ。この時点で原子力発電所は危機的状況に陥っていたようだ。

いずれにしろ状況は確実に悪化していると感じたので避難所に行って新しく避難してくる人たちに話しかけ原子力発電所についていろいろ聞きまわった。その後テレビの近くに行ったら人相が悪化したどこぞの首相が会見しているのが見えた。ここで30K圏内屋内退避が言われていた。慌てるなと自分に言い聞かせてどうするか考えていたら、東北新幹線が那須塩原まで通常運転になったことがテロップで表示されていた。福島駅から郡山駅経由で福島空港までバスが走っているテロップも流れた。福島駅から仙台行きのバスも走り仙台から新潟までのバスも走り始めたこともわかってきた。

一方で携帯電話もつながるようになってきた。携帯電話は車から充電できるようにしてあるのでバッテリーの心配はなかった。東京にいる仲間たちからも何度か電話がかかってきた。中には迎えに行く申し出もあったがガソリンの補給がままならないので渋滞にでも遭遇したら東京に戻れなくなる可能性があると言って遠慮していただいた。

114号線の福島市方面は政府の屋内退避発表以後渋滞していた。地元にタクシー会社があったので直接訪問して那須塩原まで行けないかと話をしたら、明日の朝なら行けるとなったので朝7時で予約した。車はタクシー会社の紹介で近くの駐車場に置いて貰うことにした。これで被災地脱出の目処が立ったので急に気持も楽になると何故か空腹を感じたので買い溜めしてあったカップ麺を持って避難所に行きお湯を分けてもらい食べた。カップ麺はまだ2つほど残っていたがもう必要ないのでそこに居た被災者にあげた。その晩の食料と水だけを残してすべて被災者にあげてきた。彼らは最初は怪訝な顔をしていたが事情を説明すると申し訳なさそうに受け取ってくれた。純朴な人たちだった。

翌16日車を駐車場に止めてタクシー会社に7時丁度に行った。LPガス満タンにしたタクシーが待機していてすぐに出発した。ガソリン不足のため交通量は少なく国道4号線の東京方面はスイスイだった。途中いくつかの工事渋滞があったが約3時間ほどで那須塩原に到着した。自由席特急券を買い新幹線に乗ったが車内は空いていた。椅子に座ると疲れがどっと出てすぐに眠ってしまい終点東京まで目が覚めなかった。

7174532.png東京は平穏だった。自宅の部屋は多少モノが飛び散っていたが片づけはすぐに終わった。インターネットでメイルチェックしいつも見ているサイトを見たりしていると夕方になったので近くのスーパーに買い物に出かけた。こちらのスーパーにもパン類やカップ麺類がないのを見て驚いてしまった。誰か買占めをしているよ、これは。

以上被災地域からの脱出顛末でした。被災地域の避難所にいる方は食料と燃料に困っています。東京も計画停電やガソリン不足などで不便な生活を強いられていますが、被災地に比べれば100倍もマシです。皆さん被災地域を支援しましょう。この程度の地震なんかに負けてたまるものか!

 


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コメント 6

yan

ご無事で何よりでした。
実際体験した人の話は、貴重ですね。
暗い話が多い中、久しぶりに穏やかな話を読まさせていただきました。
by yan (2011-03-18 19:51) 

唐津っ子

外国メディアが被災者(通勤難民を含む)の秩序ある行動に感動した記事をUPしていましたが,被害のなかった人たちが秩序ある行動をしていないのが現実かもしれませんね.
良いご友人をお持ちでうらやましいです.
by 唐津っ子 (2011-03-19 00:02) 

やまちゃん

ご無事で何よりです。
地震に負けないように頑張りましょう!
by やまちゃん (2011-03-19 00:57) 

kojiyan

実際に体験した記事はニュース報道の裏面のことがよくわかりリアルですね
道中冷静な判断が事故に遭遇することなく無事にかえれたことがなによりです
by kojiyan (2011-03-19 09:09) 

シービーちゃん

TVや新聞より、避難地のリアルな状況がわかります。政府には、なにが不足しているのかを把握して、物資を供給してほしいものです。
by シービーちゃん (2011-03-20 23:04) 

miharukoma

>yan さん、唐津っ子 さん、やまちゃん さん、kojiyan さん、シービーちゃん さん

皆さんコメントありがとうございます。私自身は被災地を脱出しましたが、現地で避難生活に耐えている人達や亡くなられた方達を思うと複雑な気持ちです。


by miharukoma (2011-03-21 13:30) 

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